
巡礼のなかで、互いを見いだす。
巡礼は、私たちが互いを見いだすためにあります。皆が去ったあとも、そこに集まった人々の記憶を保ち続ける。それが、迎える人の仕事です。
KUNIは、生きた営みです。その営みを信頼し、かたちが変わっていくことを許す。私たち年長者は、若い人たちの存在が見いだされ、彼らが携えている夢が現実になっていくための余地をひらくのです。
私たちのあいだにある、聖なるもてなしに感謝します。私たちの巡礼は、いまもひらかれ続けています。

KUNI · 2023 — 2025
巡礼をともにした人々の記録

巡礼は、私たちが互いを見いだすためにあります。皆が去ったあとも、そこに集まった人々の記憶を保ち続ける。それが、迎える人の仕事です。
KUNIは、生きた営みです。その営みを信頼し、かたちが変わっていくことを許す。私たち年長者は、若い人たちの存在が見いだされ、彼らが携えている夢が現実になっていくための余地をひらくのです。
私たちのあいだにある、聖なるもてなしに感謝します。私たちの巡礼は、いまもひらかれ続けています。

異なる世代、世界のさまざまな場所から来た人たちと、輪になって座る。そこで、私たちは互いから学び合える。そのことは、私が得た大きな学びの一つです。
とりわけ、日本の若い人たちから学べることに、明るい可能性を感じています。もっと調和のある社会を、ともにつくっていけるのではないかという希望です。

KUNIの輪に入ったとき、魂から行動する人たちのなかに、帰る場所を見つけたように感じました。そこは、本当に私が探していた場所でした。
ともに歩んだこの旅で、私たちは自分たちの生と死の道を歩きました。そしていま、生まれ直すような感覚とともに、歩き出す準備ができています。
古い自分の一部を手放しながら、かつて置き去りにしてきた自分の一部を思い出し、取り戻していく。

今回の巡礼で大きく心を動かされたのは、最終日の京都で、海外からのゲストたちの語りを聴いたときでした。翻訳を介していたので、すべての意味を理解できたわけではないのかもしれません。それでも、声そのものが身体や精神の奥底まで浸透し、「わかった」と感じたことを、今でも覚えています。
ビジョンとは、単に未来を予想することだけではない。過去の歴史や先祖たちとのつながりを取り戻すことで、見えてくるものがある。それが、私にとって大きな気づきでした。以前、未来について話し合う別の場では、どこか空虚さを感じていました。けれど今回は、大きな本の一頁を開いたような、自分の後ろにとても大きな道がひらいたような感覚がありました。
アート作品をつくることは、すでに言葉になっている誰かの欲求やニーズに応えることとは違います。だから、未来に進むときには、いつも一人だったりします。けれど今回、過去には多くの先人たちがおり、いつも私は支えられているのだと実感したのです。
いま向き合っているのは、自分の仕事、作品との信頼関係をどう築いていくかということです。長いあいだ、自分の作品を認められずにいました。それは、自分に与えられた個性や才能を受け入れられないこととも、深くつながっていたのだと思います。
最近になってようやく、十年来の憧れを手放せることが増え、そのたびに自分を許せるようになってきました。自分の作品との信頼を育てながら、これから数十年続く制作の根を、育てていきたいと感じています。
経営者やリーダーとして、私はいつも「中心に立つ側」にいることで場をつくってきた。正直に言えば、それはエゴでもあり、起業家としての性分でもあった。けれどKUNIでは、前に出て引っ張ることだけが役割ではなかった。場をひらき、対話が生まれる余白を残す。参加者と同じ目線で、一緒につくる。「俺が、俺が」と前に出なくても、自然体で貢献できる場があることを、身体で理解した。

摩尼山には、事前の視察を含めて二度登った。はじめのころは、後から来る人の安全のために大きな石をよけ、枝をどかしていた。振り返ると、とにかくコントロールしようとしていたのだと思う。
そのうちに、安全とは何か、どこまでコントロールするべきなのかと、疑問が湧いてきた。山全体があるがままに調和しているのだとしたら、そこから石や枝を取り除くことには、どんな意味があるのだろう。
途中から、自分の身体に目を向けてみた。呼吸を意識し、お腹に力を入れ、重心を低くして歩く。今、踏み込んでいる足の裏に意識を巡らせながら、目の前に広がる景色を楽しんでみる。
歩くたびに、だんだんと、何かに受け入れられているような気がしてきた。
参加者は本当に多様でした。その一方で、会話が、それぞれのすでに知っていることを伝え合うところで終わってしまうように感じたこともありました。良い悪いということではなく、そこから、もう一歩二歩、深く潜れないだろうか。
こっちがいい、あっちが悪いということではなく、その違いを携えて、ともに創ることはできないか。そうした「分断」と「越境」に、自分の関心があることをあらためて確かめました。
いま、この輪に何を渡せるだろう。そう考えながら、いくつか試してみました。最終日には、輪の中の人たちの言葉を集め、一緒にスクライビングをつくりました。それぞれの日々の暮らしに戻ったとき、誰か一人にでも、立ち戻れるものになったらいいなと思っています。
巡礼を終えて驚いたのは、自分の身体の中に静寂が訪れたことです。世の中がどんな状況でも、自分の中に静寂をつくることができる。その力が自分にあることに、気づかせてもらいました。

夜の奥之院を一人で歩き、祈るなかで、自分がどんな世界をつくっていきたいのかが、少し見えてきたように思います。
それは、また未来に人間として生きてみたいと思えるような、自然と人間がともにある世界でした。人と自然とのつながりを土台にして、時間や場所を越えたものにもつながっていく。そんな世界を、千年かけてつくっていきたい。その思いが、自分のなかにあることに気づきました。
長い時間の見通しを持ったからといって、いまやるべきことが大きく変わるわけではありません。ただ、目の前の仕事や、先の見えない世界への不安は、千年という時間のなかに置いてみると、ほどけていくように感じられました。
今回の気づきをもとに、自分の事業をどう組み立てていくのか、じっくり考えていきたいと思っています。日々の現実を生きながら、精神的な気づきが生まれる営みを、より大きな流れとして続けていく。そのかたちをよく見ながら、軸となるものを整えていきたいです。

日本で過ごすなかで、以前は負担に感じていたことに、喜びを感じるようになりました。家の中の仕事のような、ごく日常のことが、奉仕や儀式のように感じられる。一つひとつの行為に注がれる注意と意図、その重なりに触れた感覚は、今も残っています。
自分のものとは異なる伝統を通して源に触れることが、私自身の伝統や儀式にも、もう一度意味をもたらしてくれました。自然が暮らしのなかに息づいていること、食べものと大地とのつながりが保たれていること。その一つひとつから、古い営みや仕組みがどう生まれてきたのかを感じました。
シリコンバレーに戻ると、その違いを強く感じます。ここでは、道具と未来に目が向けられがちです。未来のための道具をつくる前に、儀式や儀礼、長く続いてきた伝統に根を下ろしていること。その意味を、この旅であらためて感じました。
伝統を守ることと、その道を未来へ歩いていくこと。その両方のあいだに、まだ形を持たない何かが育っているように感じています。
巡礼に何を期待すればよいのか、本当にわかっていませんでした。趣旨には強く惹かれていたけれど、実際にどのようなものになるのか、想像できなかったのです。
自分とはまったく異なる文化的背景の人たちとつながれたことが、嬉しかった。KUNIに近い価値観を持つ取り組みには参加したことがありましたが、それが日本の若い人たちにどう響くのかに関心がありました。皆さんの人生の話や振り返りを聴くなかで、その大切さをあらためて感じました。帰る頃には、大きな家族のように思えました。
高野山、特に奥之院と空海の御廟で過ごした時間も残っています。仏教の「空」について読んだことも、瞑想をしたこともありました。でも、それを経験としてつかめたと感じたのは、初めてだったと思います。落ち着きを取り戻すために、今も記憶のなかで立ち返っている、身体で得た理解です。
こうした集いに参加するとき、いつも持っている問いがあります。ここで生まれたつながりを、どう保ち、深めていけるのか。ともに見つけ、つくってきたものを、その後も探求できたらと思います。
そして、自分自身は、この巡礼で見いだしたことをどう生き続けるのか。その問いには、終わりがありません。
言葉にならない部分の方が多いのだけれど、かといって言葉以外でも表現できる気がしないので、言葉を置いてみようと思います。
正直自分に何が起きていたのか、今でもよくわかりません。 なぜあんなに力が湧いてきていたのか。 なぜ自分のリソースを心から場に捧げられたのか。 なぜあんなにみんなを、場を、自分自身を、沈黙を、信頼できていたのか。 オファリングの時間、涙が溢れてきたのはなんだったのか。
頭では未だにわからないんだが、身体はそれを知っている。そんな、不思議な感覚です。
頭でそれを解釈するためにフレーミングしようとすればできなくもないんだが、それは今回「これ」が起きたことの本質ではない気がしていて。
趣味としてフレーミングしたり、それを自分の場で実験してみることはしてみたいな、と思いつつも、同時に、今解釈しきるのは勿体無いとも思っているところです。
この身体に確実に残っている余韻、意識の根底のあたりで起きた全体に響き渡る小さな変容に耳を澄ませながら、今回のハレの日(KUNI)とケの日(日常)との接続面を少しずつ編み上げていきたいと思います。
参加者や巡礼を支えた人々の文章と語りをもとに、それぞれの意味と語り口を大切にしながら、長さや構成を整え、翻訳・編集しています。写真はKUNIの巡礼と集いの風景です。
オーランド・ビショップの文章は、2025年の手紙と青木光太郎による対話の記録をもとに、一人称で再構成しています。