AN INQUIRY · KUNI

ともにある、
そのかたち

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大きな木々のあいだに続く道を、数人が歩いている

人がともに生きるためにつくるかたちは、何を可能にし、何を見えなくするのでしょうか。KUNIの巡礼には、この問いが流れています。

01

願いとかたち

誰かの願いから、ひとつの営みが始まる。人が集まり、役割が生まれ、続けていくための仕組みが整う。そのかたちがあるからこそ、一人ではできなかったことが可能になり、はじめた人の生を越えて、手渡されていくものがあります。

けれども、かたちを保つことが、その奥にあった願いよりも先に立つこともある。人を結ぶために引いた境界が、人を隔てる。誰かを支えるために分けた役割が、その人にできることを狭める。変えようとしていた関係を、私たち自身の集まり方のなかで、繰り返してしまうことがあります。

これは、いまの組織だけに向けられた問いではありません。祈りの場をひらき、村をつくり、学びや仕事をともにしてきた人々の、幾千年もの営みに連なる問いです。受け継ぐかたちと、そのつど生まれるいのちを、どうともに生かしていけるのか。

どれほど言葉や計画が整っていても、ありのままの世界との出会いは、そこに書かれたとおりには進みません。ともに歩き、聴き合い、互いを知っていく。その過程で、集いそのものも変わります。そこで起こることに応じて、用意したかたちを組み替えていく余地を、KUNIも持ち続けたいと考えています。

02

KUNIという名

山や水があり、人が暮らし、祈りや物語が受け継がれている。目に見える土地と、そこに生きる人々、そして目には見えないものとの関わり。その重なりを、この集いでは「くに」という言葉に聴こうとしています。

KUNIという名には、人の営みが、何に支えられて成り立っているのかを問いなおす思いがあります。いま生きている私たちだけでつくった世界ではない。そのことを、異なる土地から来た人々とともに受けとめ、その先にひらく暮らしや社会のかたちを探っていく。

ひとつの答えを、この名に収めるつもりはありません。道を歩き、出会った人の語りを聴くたびに、KUNIという言葉が含むものも、少しずつ変わっていきます。

03

道に身を置く

寺の灯明と小さな器のそばに差し出された手。

熊野や高野山で過ごす時間は、私たち個人の生よりもはるかに長い営みのなかにあります。道を整え、祈りの場を守り、訪れる人を迎えてきた。その手渡しがなければ、私たちがここを歩くこともありません。かたちが受け継がれてきたからこそ、今ここで、初めての出会いが起こる。その両方に、身を置いてみます。

歩くうちに、思いが変わることがある。誰かのひと言で、いつもの見え方が変わることもある。気づいた人が歩みを緩め、輪のなかの沈黙が、次に語られる言葉を変える。人の内で変わることと、人々のあいだで起こること、それを超えた自然の営みとの関係は、どこで分けられるのでしょうか。

自分を深く問いなおすこと、新たな仕事や作品をつくること、次の世界のあり方を考えること。それぞれに分けられて扱ってきた営みが、歩く身体や土地との関わりのなかで、ふたたび触れ合う。そこから何が生まれるかを、先に決めずに、ただともにいられるか。巡礼は、この問いを、生きてみる時間でもあります。

04

異なる道から

これらの問いに、異なる道から近づいてきた二人が、KUNIのはじまりにいました。一人は、長年、社会に新しい事業や組織を生み出す人々に伴走してきました。若い人が自らの意志で歩き始め、その営みが社会に根づいていく。その過程を支えるなかで、事業や組織をつくることと、それを生きる人々のあり方を、ともに問い続けてきました。予期せぬ先住民の共同体との出会いは、その問いを、土地や祖先と生きる長い時間へとひらいていきました。

もう一人は、アメリカで哲学を学び、投資の仕事に関わったのち、旅に出ました。各地の思想や実践を訪ね、ヒマラヤで修行の日々を過ごし、日本に戻ってからは、若い人々と探求をともにする場をひらいてきました。学んだことが日々の選択にどう息づくのか。人との関わりや、仕事のあり方をどう変えていくのか。その問いは、旅を終えてからも続いていました。

二人は出会い、この問いにともに耳を澄ませるようになりました。世界各地に、それぞれの実践のなかで似た問いを抱く人々がいる。やがて、その人たちが海外から訪れ、日本の古い道をともに歩きました。出会う人と土地に、自分たちの問いも、集いのかたちも、変えられていく余地を残しながら。

05

道に迎えられて

世界が揺らぐとき、私たちは知恵を集め、計画を立て、できることを尽くそうとします。それでも、何を大切にし、どこへ向かうのかを、自分たちの知っていることだけでは決められない時があります。問いや願いを携えて歩きながら、まだ気づいていないものにも、身をひらいておく。巡礼には、そのための時間があります。

苔の小さな葉にさす光。

雨が土にしみ、木の根が石を抱き、落ち葉が次のいのちを養っている。そのなかに道があり、人が手を合わせてきた場所がある。息を吸い、水を飲み、歩みを進める身体にも、その土地の営みは続いています。いまはもういない人々が守り、祈りを重ねた場所に、今日の私たちが迎えられています。

この場をひらいた人が、まだ見ぬ時代に託したものは、いま、ここで何に出会っているのでしょうか。受け継がれてきた祈りに触れることが、自分のなかにまだ言葉を持たない何かを呼び覚ますこともある。何を願うかを決めて来たはずが、ここで何に応えようとしているのかを、初めて問い始めることもあるのかもしれません。

受け取ったものは、すぐにはわからないまま、ともに歩く人の言葉や沈黙に触れて、少しずつ輪郭をあらわすことがあります。それぞれが携えてきた土地の記憶、異なる世代の経験、まだ語れない思い。そのあいだに、誰も一人では思い描けなかったことが芽生える。何かを始める人も、それに気づいて場所をひらく人も、そこで起こることによって変わっていくのでしょう。

庭に面した戸口で、言葉を交わす二人。

古い道を歩くことは、これから来るものを迎える余地を、自分たちの生のなかにひらくことでもあるのかもしれません。ここで触れたものが、いつか、別の土地で、先の世代で、ひとつの仕事や、見知らぬ誰かへの心遣いとなる。どこから受け取り、どこへ渡しているのか、そのすべてを見通せないままにも、私たちは、その続きに加わっていく。道に迎えられながら、まだ見ぬものを迎える。そのあいだを、ともに歩いています。

歩いてきた土地